Presented by B.B.C./Biwako Bass Communications

Editorial
Vol.17(03/01/17)

1.17、9.11そして4.1

 95年1月16日に滋賀県琵琶湖で下野正希プロの取材をしていた著者は、その夜に帰宅。17日未明は大阪府東大阪市の自宅2階の寝室のベッドの中にいた。

 午前5時40分過ぎ、最初はフワフワと弱い揺れを感じて目が覚めた。その直後、今度はガタガタと今までに感じたことのない激しい揺れがやってきた。ミシミシッ、ドカン、ボカン、グシャッという大きな音が聞こえた。かろうじてベッドから落ちなかったのは、幸運にも大きな揺れがくる前に目が覚めていたので、ベッドにしがみつくことができたからだ。すぐに部屋の蛍光灯を点ける。一度点った明かりが一瞬消え、停電かなと思ったら、すぐにまた点いた。

 大きな揺れは数秒でおさまったが、小さな揺れが何度か続いて、しばらく起きあがれない。揺れがおさまるのを待ってベッドから身を起こし床の方を見ると、本棚の上に乗せてあったタックルボックスやコールマンのストーブなどたくさんの荷物が、並び方はそのままでベッドと本棚の間のカーペットとコタツの上にドカドカッと落ちていた。大きな音が聞こえたのは、ミシミシッというのは家のきしみか。ドカン、グシャッというのは荷物が落ちたときの音のようだ。3本並んだ本棚は倒れはしなかったものの、ガタガタにずれて、真ん中の1本は今にも倒れそうなぐらい傾いている。もしベッドから落ちていたら、この荷物と本棚の下敷きになったか、あるいは荷物の上に落ちていたかもしれないと思ってゾッとした。

 すぐ階下へ降りて居間と台所の明かりを付け、居間のテレビのスイッチを入れて音量を大きくした。1階の自室で寝ていた母親は顔面蒼白。各室の被害を確認している間に、テレビのニュース速報が流れ始めた。最初に出た速報は「東海、中部で地震があったもよう」とのこと。大阪でこの揺れなら震源地の近くはかなりひどいことになってるんじゃないかと思いながら、2階へ上がって本棚の中からポケットラジオを探し出してスイッチを入れた。間もなく、地震は神戸で起こったというニュースが伝わり始める。新幹線の高架が落ちた。阪神高速が倒れてる。ラジオのニュースアナウンサーはそう言ってるのだが、どうもピンとこない。何をバカなこと言ってるんだという感じだ。

 夜がすっかり明けてあたりが明るくなっても、まだ何が起こったのかはっきりわからない。それから徐々にニュースが神戸の街の様子を伝え始めた。これはたいへんだと早めに会社へ行こうとしたが、大阪市営地下鉄は駅まで行って動いてないことがわかった。近鉄も同じ。車で行こうとしたら、途中まで行ったところで大渋滞で前へ進まなくなった。脇道を通っていったん家へ帰り、テレビとラジオで情報収集をして、午前10時過ぎにふたたび車で出発し、なんとか昼過ぎに大阪市内の会社に到着することができた。

 著者は当時、週刊釣りサンデーという釣り専門の出版社に務めていた。6階建ての建物に大した被害はなかったが、内部の様子は上へ行くほどひどく、ロッカーケースが倒れたり机の上がぐちゃぐちゃになったりしていた。筆者の机からパソコンのディスプレーとスキャナが床に落ちたのを同僚が拾い上げてくれていた。なんとか元に戻して起動してみると、ちゃんと動いた。思わず「よかった」と声に出してしまったが、とても喜んでいられる状況ではない。すぐに締め切りが迫っている雑誌がある。それをどうするか。取材予定はキャンセルしないといけない。進める仕事と止める仕事の交通整理も必要だ。社内の片付けをしながら、製版会社や印刷会社、デザイナー、イラストレーターなどと連絡を取り、できるだけ早く仕事ができる体勢を立て直すことが最優先課題となった。

 何よりも困ったのは、電話が通じないことだ。最初のうちは5回に1回ぐらいは通じていたのが、次第にかからなくなり、翌日には10回に1回も通じなくなった。こうなると、かかればラッキーという感じである。そこで活躍したのが著者の携帯電話だ。当時、著者はセルラーのアナログ携帯電話を使っていたのだが、会社でほかに誰も携帯電話を使ってる人はいなかった。それがなんとか通じたので、どうしても連絡を取らないといけない最優先の連絡先に限って、この携帯にかけてもらうことにした。こちらからかけるのも同じ携帯から。社員が自宅と連絡を取るのも、これしか手段がないとなったら貸さないわけにいかない。あっと言う間に使う人がどんどん増えていった。

 著者は地震から3日後の1月20日に神戸へ取材に行っている。普段は防波堤へ釣り人を渡している渡船が、被災者への補給や工事資材、人員などの運搬をしていたので、それに便乗して神戸の釣り場がどうなったか見に行ったのだ。

 神戸港沖の防波堤はスズキやチヌ(クロダイ)、グレ(メジナ)、メバル、ガシラ(カサゴ)、カワハギ、タチウオなど何でも釣れる好ポイントの連続。港内の岸壁もスズキやタチウオの好釣り場ぞろいだ。それが地震でどうなったか。海面から高さ5m近くあった防波堤が、小型和船の舳先から簡単に飛び上がれるぐらい低くなっている。波を防ぐために積み上げられた防波ブロックが水面下に沈んでしまっていて、知らずにその上をボートで走っていることがあった。きれいに一直線に並んでいたケーソンはことごとくガタガタにずれて、隙間が50cm以上も開いている所がある。港の岸壁は陥没していたり崩れていたりで、船を着ける所を慎重に探さないといけない。これがあの神戸港かと我が目を疑うほどの被害状況であった。

 その神戸港の沖の防波堤から携帯電話が通じたのである。さっそく会社に報告し、神戸港の被害の様子と渡船の活躍を伝える写真とレポートが最新の誌面に掲載されることになった。

 その後、日を追うにつれて経済、社会活動が徐々に回復していく一方、被害の大きさや現場の惨状が明らかになっていった。会社の仕事がほぼ元通りになった2月末に著者は辞表を出して3月末に辞職した。著者が会社を辞めたのと地震とは何の関係もないが、最後の印象的な取材として震災の神戸に行ったときのことは今でもよく覚えている。

 2001年9月11日夜、著者は和歌山県新宮市のワイルドキャット海の家にいた。下野プロが雑誌の取材に来ていて、その日の夕方は港の防波堤でイシダイ釣りをして何も釣れず。翌日はワイルドキャットで沖へ出てカジキ釣りをする予定だった。夕食をすませて、明日の釣りに備えて今夜は早く寝ようかというときに、下野プロの自宅から電話があり、アメリカでたいへんな事件が起きているという。すぐにテレビのスイッチを入れると、世界貿易センタービルから煙が上がっている中継画像が映し出された。それから午前5時前までテレビに釘付けになり、カジキ釣りは眠くて仕方なかった。9.11からアフガニスタン爆撃に至るその後の展開は、皆さんもよくご存じの通りである。

 東京オリンピック、ケネディ大統領の暗殺、アポロの月面着陸、大阪万国博覧会、オイルショックのパニック、キャンディーズの解散、山口百恵の引退、長崎県男女群島で81.5cmのクチジロを釣ったことなど、著者が経験した出来事はほかにもいろいろあるが、中でも阪神淡路大震災と世界貿易センタービルへの自爆テロは、衝撃の大きさと人智の至らなさの点で双璧である。他の出来事に比して、ものごとに対する分別が付くだけの年齢に達してから経験したから印象深いということもあるかもしれないが、事実としての重さや意味深さはやはりこの二つの事件が飛び抜けていると思う。

 2003年4月1日は、これら二つの出来事以上の衝撃として、著者の記憶に残る第3の日となるであろう。琵琶湖バスのリリース禁止は、バスアングラーとバス業界に対する衝撃の大きさで大震災に匹敵する。こういう言い方をすると亡くなった方に失礼だと言われるかもしれないが、それを承知で言わせていただくなら、リリース禁止によるアイデンティティーの喪失は、バスアングラーにとって震災による死と同等である。バス業界に対する経済的な被害も同様。

 さらに、民主主義のルールを犯してまでもリリース禁止を強行するという為政者による蛮行は、テロリストを生むに至った歴史をまさに目の前で見ているような気がする。自爆テロのような事件が琵琶湖で起こらないことを祈りたい。

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