Presented by B.B.C./Biwako Bass Communications

Editorial
Vol.41(04/05/27)

とかく釣りメディアというものは……

 ゴールデンウィーク中に奈良県池原ダムのバスフィッシングの様子を見に行ったときのこと。昇降業者のスタッフから、次のような話を聞いた。

 あるバス雑誌に、池原ダムの水質が悪くなったのは放水の仕方がかわったからだという記事が載ってた。それが本当かどうか、記事を見たバスアングラーから何回も聞かたり、電話予約や状況問い合わせの際に根掘り葉掘りたずねられたりしてるというのだ。

 最初にその話を聞いたときは、そういうこともあるのかと大して気にしなかった。ところが、別のレンタルボート店でも同じことを言われたから、ちょっと待てよということになった。選択取水装置を使って放水してる池原ダムの水質が、それが原因で悪くなったとはどういうことか。これって、ちょっとおかしいんじゃないか。そういういいかげんな記事を大勢のバスアングラーが読んでる雑誌が載せてたとしたら問題である。これは事実確認をしておく必要があるなと思って、連休のバタバタが終わってから調べてみた。

 昇降業者のスタッフも、レンタルボート店のスタッフも、質問されるようになったのは連休に入ってからだと言う。ということは、4月末頃発売の雑誌に載った確率が高いことになる。著者はバス雑誌をまったく購読してないし、こんなことのために買いそろえるような無駄なことはしたくないので、贈呈のバス雑誌がひとそろい送られてくる某有名プロ宅で見せてもらったら、3冊目に大当たり。確かにその記事が載ってるではないか。

 それが上の写真。「以前はダムの中層部から濁った水が放水されていたが、現在はダムの上部からに変更。バックウオーターからの綺麗な水がそのまま流れてしまってるのだ」という文章と説明のイラストが載ってるのだが、池原ダムってこんな構造だったっけ?

 これってたぶん、選択取水装置のことを言いたいんだろうね。池原ダムの選択取水装置は放水ゲートとは別の独立した施設で、塔のような構造物が放水ゲートのすぐ近くの湖底から立ち上がっている。この施設があることで、望むままにどの層からでも放水が行えるようになってるのだ。確かに放水ゲートのすぐ近くにあって、ほとんど一体化してるみたいなものだけど、構造的にも理屈の上でもイラストとはぜんぜん違う。たぶん、この記事を扱った編集者は、選択取水装置のことをぜんぜんわからないまま、調べようともしないで、想像だけで記事にしてしまったのではなかろうか。

 池原ダムの完成は1964年。そのときには選択取水装置はなかった。選択取水という発想が出てきたのは、そのはるか後のことである。池原ダムに設置されたのは今から15年ほど前。ダムの水をほとんど抜いて大規模な工事を行うという降って湧いたような突然の話に、バスは大丈夫かと心配したことを覚えておられるバスアングラーの方も少なくないと思う。と言っても、ここ10年以内のブームの影響でバスフィッシングを始めた方や、ビッグバスブームで池原ダムへ行き始めた方にとっては遠い昔の話だから、知らなかったとしても無理はないが……。

 選択取水装置を新しく設置したとき、池原ダムを管理する電源開発がどのように説明したかと言うと、出水時に濁った水がダム湖にたまったとしても、濁りが沈んだ上層のきれいな水を選んで放水できるから、下流の川にいち早く澄んだ水を流せるようになるという話だった。新聞や釣り雑誌などにも、その説明通りの記事が載った。この説明の通りなら、最初に出てきた雑誌の記事は正しいことになる。常に上昇のきれいな水が放水されるわけだから、ダムの下層には濁った水が残り、それが何らかの作用で水質を悪化させる可能性がないとは言えない。ところが実際に行われてることは、その説明とはまったく違ってるのだ。

 B.B.C.ホット情報で、この選択取水装置について書いたことがある03/08/2103/09/02。大雨による増水時に、選択取水装置を使って下層の泥濁りの水を一気にまとめて放水し、そのため下流の七色ダムがひどい濁りになってしまってるという話だ。七色ダムが濁れば、その下流の北山川はずっと濁りっぱなしになる。アユの友釣りなどは長期に渡って釣りにならないから、友釣り師にとっても、河川漁協にとっても、迷惑なことこの上ない。下流の川にきれいな水を流すために設置されたはずの選択取水装置が、まったく役に立っていない。なぜそんなことになるのかと言うと、選択取水装置の本当の目的は、「ダムの寿命を縮めないために、洪水時に濁りの濃い層を選んで、流す装置(天野礼子著「ダムと日本」からの引用)」だからだ。「ダムの寿命を縮めないため」というのは、堆砂でダム湖が埋まるのを防ぐために、砂や泥を水とともに流してしまうことでダムの稼働寿命を延ばすという意味である。

 大雨などによる出水で川の水が濁ったとしても、雨が止めば水位の低下とともにすぐに澄んだ水に戻る。それが本来の自然な清流の姿である。ところがダムが建設されると、濁った水がダム湖にたまり、そのため下流の川の水がいつまでたってもきれいにならない。水がきれいになるのは、ダム湖の濁りが沈殿して澄んだ後になるから、たいへん時間がかかる。本来は清涼な川の水が、ダムができたことで濁るようになってしまった。しかも、いったん濁ったら当分は回復しない。それがダム下流の河川漁協や周辺住民の大きな悩みであった。

 そこで、選択取水装置を設置するにあたって、前記のような説明が行われたわけだが、事実はその通りではなかった。選択取水装置は澄んだ水を流すためのものではなく、濁った水を流すためのものだったのである。池原ダムに選択取水装置を設置したときの電源開発の説明は、澄んだ水を選択的に流すことも可能だという意味ではまったくの嘘ではないが、都合によいところだけ出して都合の悪い部分は隠してるという点では詐欺同然だと言われても仕方ないだろう。

 同様の事例は池原ダムだけではない。ちょっと長くなるが、再び「ダムと日本」から引用しよう。前出の引用と重複する部分があるが、参考になると思うので、あえてそのまま引用する。前後の文章と合わせてお読みいただければ、さらにその意味を深くご理解いただけるだろう。

天野礼子著「ダムと日本」からの引用------------------------------

 四国・吉野川の早明浦ダムでは、ダムを造る時は流域市町村の「推進の旗振り役」をつとめていたダム直下の町・本山町の町長が、ダムの完成後はダムからの濁水に二五年も苦しんできた。二年前からはいよいよ悩みが深まっているようだ。ダムを造る時、建設省も水資源開発公団も「ダムができても水は濁らない」といっていたのに、完成後すぐに濁水被害に悩まされるようになり、それゆえ二五年も懇願して一九九九年四月にやっと選択取水装置を付けてもらったところが、作動してみると、以前よりもひどい濁水が流れたからだ。

 選択取水装置とは、本来はダムの寿命を縮めないために、洪水時に濁りの濃い層を選んで、流す装置である。

 同じ四国の高知県の奈半利川にあるダム郡には、ダムの持ち主の電源開発(株)が、ダムの建設と同時にこの装置を取りつけて、川の漁業組合とは、漁業被害は金銭で補償することを条件に、毎年選択取水装置を作動させてもらっている。

 なぜ早明浦ダムでは、こんなことができていないのだろうか。それは、電源開発(株)のような私企業でない建設省は、この早明浦ダムに限らずダムの寿命や堆砂のことなど、あまり考えてこなかったからなのではないだろうか。

 それとも、「ダムができても、濁水は選択取水装置さえつければ解決します」と、本山町長にも、全国の、たとえば川辺川ダムの本体着工の許可をもらいたい球磨川漁協などにも、事実とは正反対のことをいってきてるからだろうか。

 建設省が、本山町長には「選択取水装置は、洪水時に濁水を選んで海に流す装置です。これが作動するといつもよりひどい濁りになりますが、流させて下さい」と、球磨川漁協には「それでもダムを造らせて下さい」と本当のことを言わない限り、この第二の堆砂解決方法は使えないのではないか。

引用終わり----------------------------------------------------

 この文章に出てくる建設省と同じように、電源開発も池原ダムの選択取水装置について、「濁水は選択取水装置さえつければ解決します」と説明した。最初はその説明を信じたダム下流の河川漁協や住民、釣り人達も、今はだまされたんじゃないかと思っている。その選択取水装置について、バス雑誌がろくに事実確認もせず、いいかげんな記事を載せちゃってていいのか。選択取水装置は濁った水を流すための装置であり、池原ダムではその通りのことが行われてるのだから、それでダム湖の水質が悪化することはないと思うのだが、この記事は何かぜんぜん別の理論に基づいてるのだろうか。あるいは、選択取水装置の話ではないのだろうか。

 例えば新聞やテレビなどのメディアが釣り関係のニュースや話題を扱うときに、わからないことや事実確認の必要が出てきたら、どこの誰に聞くか。普通だったら釣りに詳しい人物や信頼の置ける釣り関係のメディアに聞くはずだが、そういうことはほとんど行われないまま、新聞やテレビ、製作会社スタッフのつたない知識だけにたよって、ネタになりそうなものは記事やニュース、バラエティーの話題などに仕上げられている。

 そうなるのには二つの大きな理由があって、まず第一は、釣りという遊びが些末なネタにしかならないから、裏付け取りや事実確認などしてる時間や費用はかけられないということがある。それだけ世の中で釣りという遊びの価値が低く見られてると言うか、そういう評価しかされてないのだ。

 もう一つは、聞こうと思っても、誰に聞いたらいいのか、その相手がいないという問題がある。新聞やテレビ会社おかかえの釣り関係のご意見番なんて聞いたことがないし、そんなこと聞ける釣りに詳しいジャーナリストなんかどこにもいない。なぜなら、釣り業界ぐるみでそういう人物を育てる努力を一切してこなかったし、仕事ができそうな人物が出てきそうになったときは、どちらかと言うとつぶすための努力に多くが費やされてきた。そういうことが連綿と続いてきたから、釣りジャーナリストと自称しながら釣行記ぐらいしか書けない、業界に便利のいい御用聞き的人物しか残ってないのである。

 ならば釣り関係のメディアはどうかと言うと、上記雑誌のような体たらくぞろいである。これは古参だろうと新規参入組だろうと、大手だろうと弱小だろうと、内容に大差はない。外来魚問題やリリース禁止に関して、釣り関係のメディアに何ができたかを思い返していただければ、それ以上の説明は不用だろう。

 例えば新聞記者が釣り関係のことでわからないことがあれば、釣り関係の出版社に電話して、編集長なり何なりに聞くというのが、世の中の普通のメディア同士の付き合いのはずだ。ところが、釣り関係のメディアに限って、そういう扱いは受けていない。つまり、信用されてないと言うか、相手にされてないのである。なぜそういうことになるかと言うと、やってることがジャーナリズムとは程遠いからである。そんなのと付き合ってたら、こっちの信用問題に関わると相手は思ってるのではないだろうか。

 そういうことが恒常的に続いてきた結果、リリース禁止のような大問題についても、釣りをしてる側の意見が取り上げられることはなかった。取り上げようとしても、語るにふさわしい人物が見当たらない。語れそうな人物は表へ出て来ようとせず物陰に隠れたままだし、出て来たがるのは語るに落ちた輩ばかり。全国紙の対談で某誌編集長に語らせてみたら、ろくなネタの持ち合わせがなく対談にも何もならない。そりゃそうだ。まともな話ができるんだったら、ちょっとはまともな記事が某誌に載ってるはずだろ。ところがそんなことはいまだかつてなく、重要な問題ほど下請け仕事ばかり。その下請けがまた、ド素人ばかり。まともなジャーナリストを育ててこなかった付けが溜まり溜まって、今になって回ってきてるのである。

 そこへさらに悪いことに、売り上げガタ減り、広告ガタ落ちときてるからたまらない。経費削減、スタッフ減員のあおりが内容に即跳ね返るのがメディアの怖さだから、結果は目を覆いたくなるばかり。デザインや装丁などの表面上は取り繕えても、中身はどうしようもない。魚釣りというのは1年たてばまた同じ季節が回ってくるから、よほど現場から面白いネタを取ってくる能力がない限り、内容は単なる繰り返しになる。最初のうちは勢いで持たせても、5年もやってるとネタが尽きてくる。やってるスタッフは飽きてきて惰性仕事になりがち。おまけにアングラーはほっといても成長するから、もっと面白いネタでないと鼻も引っ掛けてくれない。

 バスフィッシングブームで新しいメディアがいろいろと出てきて、ちょっとは面白いことが起こるかと思ったが、結局何も起こらなかった。やってることは、箸が転げただけで勝手に笑ってるような女の子を笑わせるのが精一杯のお笑いタレントを集めたテレビ番組と同じ、何もわかってない子供相手の食い合いである。そんなのよりも、外来魚問題やリリース禁止の扱いに七転八倒してる、その姿を見てる方がよほど面白かった。リリース禁止は数ある釣りメディアの中から抜きん出るチャンスだったが、それに成功した既存メディアは一つとしてない。せいぜい、そういう努力をしてる振りをして、読者離れを少しでも押さえるのが精一杯であった。

 読者が新聞を育てるという言葉がある。つまり、購読者や視聴者とメディアの関係は、単なる品物を買う側と売る側の関係と決して同じではなく、お互いが切磋琢磨し合うような関係だということである。これを逆に言えば、子供相手には子供だましのメディアで十分。むしろそれがふさわしいということになる。現在の釣りメディアのレベルの低さは、アングラーの質の低さの反映か。と言うよりは、単なる情報の消費者と流通業者の関係でしかないんだろうね。だからジャーナリズムなんてことは起こりようも行いようもない。

 この関係をひっくり返すのは、琵琶湖のリリース禁止をひっくり返すのと同じぐらい難しいことかもしれないが、それなら琵琶湖のリリース禁止と闘ってるバスアングラーだって大勢いるではないか。もしかしたら、ここから何か起こってくるかもしれない。著者はそう思ってるのだが、それが何かはまだ定かではない。既存メディアの中で起こるんだったら、もうすでに起こっててもおかしくないはずだから、これは期待するのが無理というもの。おそらくは、別の何かが必要だ。

 ならば、まったく新しい場所で新しい何かが起こるのか。その場所とはインターネットか? 新しい何かとは、何か? 誰が起こすのか? 偉人か、天才か、カリスマか、あるいは一般アングラーの中の誰かか? そのとき、メディアとバスアングラーの関係はどうなるのか? 皆さんもここらでちょっと一休みするんじゃなくて、メディアとの付き合い方を考えてみられてはいかがだろうか。

Bassingかわら版Editorialのバックナンバーへ