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■09/12/20

テレビ番組の録画などを除いた自前のデータのバックアップだけなら、2TBもあれば事が足りるんじゃないかという話。ムービーの素材やら編集データ、二次ファイル、DVDのデータなどで手持ちのバックアップディスクがいっぱいになってしまい、2TBの外付けハードディスクを買い足した絶妙のタイミングでImpressのPC Watchの中に「山田祥平のRe:config.sys 2TBの小宇宙」というタイトルの連載記事を見付けた。

「自分だけのデータという点に着目すれば、ほぼ四半世紀パソコンを使ってきて手元に残ったデータは2TBのストレージがあればすっぽりと収まって、まだまだ余裕がある」(上記記事からの引用)

筆者のムービー以外のデータは、テキスト、写真、イラスト類、DTPファイルなどを含めて500GBのポータブルハードディスクに収まっている。データ量は約120GB。それ以外にMP3データが約4GB。その内容はビートルズ、RCサクセション、ベートーベン、ブラームス、ブルックナー、シューベルト、マーラー、チャイコフスキー、シベリウス、菅野洋子……etc。今、ベートーベンの交響曲第7番をBGMにこの原稿を書いているが、今後この類のデータが劇的に増えてディスク容量が問題になるようなことは生涯ないと思う。問題を単純化すれば、ムービーのデータだけが肥大の一途をたどっているわけで、目先片付けないといけないデータだけでも手持ちのディスクに収まらなくなったために2TBのハードディスクを買い足したというわけ。今現在もこの原稿を書いているバックグラウンドで先月撮影したムービーの取り込みにMacBookProのCPUが手一杯の仕事をしているから、A TOKの反応が悪いったらありゃしない。ここで第7が終わったので、iTunesのプレイリストから第9を選んでスタート。

「立って半畳、寝て一畳。人間とはその程度のものだ。そして、人生は2TBでことが足りる。たぶん、それが足りなくなるころには、ネットワーク帯域がモバイル環境を含めてスループットを拡大し、ストレージを持ち運ぶこと自体が無意味になっているはずだ」(同)

例えばの話、ネットワーク帯域のスループットが拡大し、クラウド化が進んだ将来、ネット上のストレージに置いたムービーデータをブラウザ上で編集してYouTubeにアップするようなことが可能になるのだろうか。それともう一つは、DVD1枚に入ってるような長さのムービーをストレスなくネット上にアップしたり観たりできるようになるのだろうか。ごく近い将来そんな日が来るのかもしれないが、今しばらくはムービーを扱うのに力業も必要。とりあえず2009年中に撮影したムービーは今回買ったディスクで処理できるからいいとして、2010年も同じようにやっていこうと思ったら、さらにディスクを買い足しつつ続けていかないといけない。続くかどうかは先の話だから、今はどうなるか何とも言えない。続けられたらいいなー、そんな感じで在庫ムービーを処理しながら年末を迎える準備をしているところだ。

■09/12/13

2009年公開の映画「スタートレック」の中で、スポックが転送装置を使って敵艦に乗り込もうとするシーン。自分も一緒に行こうとするカークにスポックが言う。「規則違反だが、それでも君は来るだろう」ジェフリー・ジェイコブ・エイブラムス監督がうまいのか、脚本のアレックス・カーツマンとロベルト・オーチーのアイデアなのか、トレッカー(トレッキーとも言う)を喜ばせるシーンだよね。旧作の単なるリメイクに終わることなく、かと言ってスピンアウト作品でもない、過去の改変によるパラレルワールドのプリクエル(前日譚)から次作を予想させる結末、おまけに最後の最後におなじみスタートレックのテーマが出てくる、ハリウッドにはこういうあの手この手に長けた作り手がたくさんいるんだろうなあ。それにくらべたら、いろいろ言い分はあるんだろうけど、メタルジグのそっくりさんはなんだかなあ……。

12月12日夕方、北海道の苫小牧東港防波堤で釣りをしていた7人がマイボートで帰ろうとして転覆し6人が死亡。13日午後には茨城県の鹿島港防波堤へ釣りに行った3人が行方不明。いずれも立入禁止とされている防波堤での事故が相次いだ。大阪港の釣り禁止問題はひとまずの決着を見たが、これでまた防波堤の立入禁止がなんやかやと話題になって、安上がりなネタに鵜の目鷹の目のメディアを喜ばせるんだろうね。そこで注目したいのは、建前上立入禁止だけど普段普通に釣りができてる場所が防波堤に限らずたくさんあるということ。それをメディアがどう扱うかは非常に興味深い。まあ、そんな世間の動向とは無縁の所で、行きたいやつは規則違反だろうが何だろうが好きな所へ行くんだろうけどね。その点では釣り人というのはカーク以上だし、誤解を恐れず言うなら、ろくに釣りにも行かないくせに釣り好きのふりだけして甘い汁吸ってるやつらよりは、そんな所へでも釣りに行こうとする人達の方が好きだし、その行動心理はとてもよくわかる気がする。(あっ、これ、立入禁止破りを勧めてるわけではないから、くれぐれも誤解のないようにね)

■09/11/10

滝田洋二郎監督、須賀健太主演の映画「釣りキチ三平」(09年、東映)の中で、三平を東京へ連れ帰って勉強させようと田舎の実家へやって来た姉と三平のやり取りのシーン。

「こんな所で釣りばっかやってたら、ダメになるわよ」
「釣りの何が悪いんだ!!」
「釣りなんて、ただのくだらない遊びじゃない」

こういう経験って、心底釣りが好きで子供の頃からやってた根っからの釣り師なら身に覚えの一つもあるんじゃないのかなあ……。(いい歳になってから釣りを始めた人や、釣りが好きなふりだけしてる人、受け売りの能書きばかりたれてるだけの人は除く)

この映画のテーマは釣りだけではない。都会と田舎、経済と自然、これらを語ろうと思ったら、本1冊や映画1本ではとても足りない。だから、この映画にも説明の言葉はない。問題を提起して、終わりまで観たら少しは理解できるかも、後は自分で考えてね、という手法なんだけど、それにしても観終わってから、あるいは観てる最中からすでに、あそこはおかしい、俺ならこうする、あんなタックルでは釣れない、鮎川魚紳のモデルはT辺N男か、ルアーだけ某メーカー製でステッカーまで映ってるのにほかの釣り具系スポンサーが出てこないのは三平が竹竿使ってるからか!?などと百家争鳴になるのが釣りの世界の常。なぜなら魚釣りというものを100%表現するのは釣り場以外では到底不可能だし、ある意味、ダメになるぐらいやり切ってからでないと、釣りの本当の面白さについて語れるものではないからね。

テーマが今どきなだけに、へたしたら受け狙いの底の浅い映画になりかねないところを滝田洋二郎監督は適度のところでうまくまとめて成功していると思う。その点では、批評家の受けも概ね良好。問題は、釣りシーンなどに出てくる魚のCGだ。これついては、実写シーンとイメージが違い過ぎて浮いてるという批評が多かったけど、これはどうかなあ……。古今東西、大昔のスペンサー・トレイシー主演「老人と海」(58年、ワーナー)からブラッド・ビット主演「ア・リバー・ランス・スルー・イット」(92年、コロンビア)、今年末22作目で最終回を迎える西田敏行主演「釣りバカ日誌」シリーズ(88〜09年、松竹)に至るまで、目を見張るほどリアルで感動的な釣りシーンなんて映画でもテレビでも観たことがない!! 原作者のアーネスト・ヘミング・ウエイみずから海に出て撮影した老人と海のカジキがジャンプしまくるシーンは釣りキチ三平とは逆の意味で浮きまくってるし、ロバート・レッドフォード監督がこだわりまくったと言われるア・リバー・ランス・スルー・イットの釣りシーンもカットが短いからなんとかなってるレベル。釣りバカ日誌の釣りシーンについては、もう居直ってるとか思えない。だから、どっちみち映像で再現不可能なら、CGでも何でも、そこそこでいいんじゃないのかなあ……。本当に釣りと映画が好きでよくわかった人が観てるのであれば、そこのところは想像力で補うでしょ。あるいは、サケ、マス類の中では動きがのろいイワナがカジキみたいにジャンプするかと突っ込んでジョークですませるか……。まあ、こういうことはそこそこのサイズのイワナを釣って、カジキのジャンプも生で見てから言ってほしいんだけど、魚がCGだから浮いてるのなんのという論説に同調するのは、それこそ本当には釣りのことをわかってないイカサマ釣り師か、受け売りとおべんちゃらだけで生きてる口先人間の類じゃないのかね。

釣り具系スポンサーについては、強力なメインスポンサーの類が付かなかったから、観ていてしらけるシーンが少なく仕上がったのかもしれない。これは結果オーライか、あえてそうしたのかは知らないが、この映画を観ていて最も違和感を感じたのが某ルアーメーカーのステッカーがわざとらしく写ったシーンであったことからも、そのことは言えると思う。某ルアーメーカーを非難するつもりは決してないが、本編ではルアーが大写しになる程度に抑えて、メーカー名はさりげなくエンドクレジットに出てくるだけなら「さすが!!」と思うんだけど、あまりにもあからさまなのは大人向けにはちょっとねえ……。このあたりに今の釣り業界と広告宣伝システム全体の限界を感じてしまうんだよね。これがもしテレビ番組やセルパッケージメディアのメインスポンサーだったら、特定企業がお金を出してくれてるんだから、どんな手を使ってもそこの製品で魚を釣って見せなければ、なんてことになりはしないかと思ってしまう。スポンサーだけでなく、過度のタイアップも同様。いまだにしばしば語りぐさになるほど有名な黎明期の釣り番組や故有名作家のTV CMほか、こういうことの影響によるヤラセの例は枚挙にいとまがない。琵琶湖でもつい最近そういう例があったよね。そんな映像をお金払って買ってる一部のバスアングラーは気付きもしないのかもしれないが、そこに横たわる壁を突き破らない限り、いつまでたっても世間の評価は「釣りなんて、ただのくだらない遊び」のまま、「釣りの何が悪いんだ」といくら大声で叫んでも理解してもらえないんじゃないかな。

■09/10/29

こういうときに事態を収拾できるだけの見識と影響力があってみんなから信頼されてる人や組織が今も健在だったらなあと死んでしまった後になって思うこと。

■09/08/08

長かった同じストーリーの繰り返しは、8回目にしてようやく終止符を打った。同じ話を細かく作りかえつつ延々と放送し続けるという趣向は、アニメを観てる方よりも、観てる方を見てる方の方がよほど楽しかったのではないかと思ってしまう。それほど話題としては盛り上がった。これを称して、エンドレスエイト現象。そんな中ではっきりしたのは、ネットでささやかれるまことしやかな伝聞や噂話がいかに根拠のない虚言、妄言ばかりであるかということ。そして、匿名の非難囂々などアリの歯ぎしりほどの効きめもなく、ストーリーの繰り返しは最後まで続き、DVDも発売されるという事実(エンドレスエイト2話を収録したDVD「涼宮ハルヒの憂鬱5.142857」は9月25日発売がアナウンスされているが、ここで何か仕掛けがある可能性は否定できないので、こういう書き方に留めておく)。

例えば、「こんな内容ならDVDは買わない」という匿名発言のうち、実際過去にDVDを買ってる割合がどれぐらいあるかを想像してみる。あるいは、制作会社に抗議したという発言の中に、本当に抗議したケースがどれぐらいあるか。こういう発言をすることで行動できない自己を救済している、ネットをそのはけ口にしてるだけではないのか(本当にはけてるかどうかはきわめてあやしい。はけてるように見えて実は鬱積してるだけかもしれないからね!!)。そんなことを考えながらエンドレスエイト現象を眺めるのは実に面白い。

「私の役目は観測だから」というのは、このストーリーの中で唯一最初から繰り返しに気付き、15532回の繰り返しをすべて記憶する長門ユキが、「どうして黙ってたんだ?」というキョンの問いかけに答えた言葉。ちなみにこの言葉、8回続いたエンドレスエイトの最初の回(第12話)と終わりの回(第19話)には出てこない。思うに、これって、純粋の繰り返しである中6回の放送中に起こる騒動を観測するのは私の役目だという制作側の謎かけではないのか!?

話のついでに、エンドレスエイトの楽しみ方をご参考までに。マニアならお気に入りのアニメを何回も繰り返し観るのはあたりまえのはず。今回は、それを実際の放送で、莫大なコストと手間暇かけてまで地上波TV放送をデジタル化しないといけないほど貴重だとされてる電波を使って、しかも毎回細かい演出から衣装、セリフ回し(同じストーリーの繰り返しであるがゆえに声優の演技力が際立つ)に至るまで作りかえつつやってくれたわけだ。であれば、いずれ繰り返し観るものを放送で観せられて文句言ってるのは何だ!!ってことになりはしないか? エンドレスエイトの各エピソードを繰り返し何回も観て、細かな違いから仕掛けの数々、演出の狙い、思想性に至るまで徹底分析、そのすべてを長門ユキのように記憶する、そんな超マニアが現れたら、それはそれである意味すごいことなんじゃないのかなあ……。(角川なら「エンドレスエイトの謎」みたいな本をすぐにでも出してきそう。これも一つの仕掛けか!?)

そんなこんなから9月以降発売されるDVDの売れ行きまで含めて、エンドレスエイト現象を外から眺めるのは本当に面白い。それでいて、何も行動はしない。そんな行動できない自分を救済する必要もない。だって、私の役目は観測だからね(長門ユキのように冷たく突き放して、かつエンドレスエイトの回を重ねるごとに次第に悲しげに……)。

■09/06/26

主人公の涼宮ハルヒ、キョンらSOS団のメンバーがこのエピソードまでに15497回繰り返した夏休み終盤のイベントの一つ、1日団長の権利を賭けたセミ捕り合戦で捕まえたセミを逃がすときのハルヒのセリフ。

「やっぱ、キャッチアンドリリースの精神が必要よね。逃がしてあげたら将来恩返しに来るかもしれないし……。ほら、山に帰りなさい。もう捕まるんじゃないわよ」

それに対してキョンがあいかわらず切れ味鋭く突っ込む。

「いや、待て。美談ぽいが、一方的に捕まえて逃がしただけだろ、お前」

キャッチアンドリリースを旨とするバスアングラーは、この疑問に真っ正面から答えるだけの覚悟はあるのか!?

■09/05/26

ドイツの思想家、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはこう語った」については、ここで解説するにはあまりにも手強過ぎる。これだけで哲学の講義に1年ぐらいは十分かかってしまうテーマだからね。読んでもさっぱりわからず眠くなるだけなのは、こういう本を読む訓練を平均的日本人は受けてないからだろうか。ここは素直に降参して、単なる引用に留める。たまにはこういうこともあるので、ご容赦を……。前回の話題と違って、今回はお祭りの火種にもなりそうにないのは残念!! それでも、なんとかしてお祭りにしたいという方は、本日同時アップのYouTubeムービーを観てみれば!?

■09/04/02

どこかの釣り大会で事件があったらしいが、筆者は宗教活動には興味がないので、そこで何が起ころうと知ったことではない。この教団の釣り大会は、もう10年近く取材に行ってないし、記事も書いてない。はっきり言って、かかわりたくないんだよね。だから本件に関して今さら意見を求められても困る。あえて個人的感想を述べるなら、主催団体やメディア、スポンサーに対して謝れって誰かが言ってるらしいけど、こういうのを本末転倒のトカゲの尻尾切りと言う。ファンや一般の人達に謝罪するのは当然として、スポンサーや主催団体への謝罪は内々のことにした方がいい。でないと、選手だけに責任を取らせて自分達は知らないよというのは今どき通らないどころか、責任逃れと受け取られてイメージダウンに直結しかねないもんね。こういうのを危機管理ができてないと言う。公の場所でものを言うなら、気を付けた方がいいよ。あるいはこれも宗教活動の一環であるとすれば、イメージダウンは今に始まったことではないので、信者以外は相手にしてないってことか!? あっ、これ、事実関係を踏まえた上での意見ではなく、あくまでもいいかげんな聞きかじりによる個人的感想だからね。

日本国憲法
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

※注 この記事は2004年秋に琵琶湖で起きたことを頭に置きながら書いている。このときのことは、おそらくBassingかわら版にしか出てないんだけど、かわら版がバックアップ状態の今となっては、歴史から消え去ったも同然。知識の継承や歴史から学ぶことをしないから、いつまでたっても進歩がないのかもしれないね。

■09/03/01

ベトナム、カンボジア戦争に従軍中の1973年11月にクメールルージュ支配下のアンコールワットへ単独潜入を試みて行方不明になったフリーカメラマン、一ノ瀬泰造の生き様を描いた映画「地雷を踏んだらサヨウナラ(五十嵐匠監督)」の中で、通信社出先事務所の写真担当とのスクープ写真をめぐる一場面。

「ワシントンポストの一面だ。仕事が増えるぞ。これが名刺がわりだ」
「UPIが俺の名前? ポストの一面に載ってもUPIだなんて。命と引換えに撮った写真がネガごと切り取られて俺の写真じゃなくなる。死んでも補償はなし。俺は使い捨ての鉄砲玉ですか」
「好きでフリーランスなんだろ」

地雷を踏んだらサヨウナラはこの映画の原作になった一ノ瀬泰造の書簡集(講談社文庫)のタイトルでもある。フリーランスは自分の意志のみに従って仕事をするが、フリーランスであるのは自分の意志なのかどうか。本当は安全で収入も保証されてる宮仕えがしたいのではないか。フリーと自称しながら実は悪魔に魂を売る類の仕事しかできてないのではないか。そういうことを自問自答しながら、ぎりぎりの崖っぷちを歩いてる本当のフリーランサーには、グサッとくる言葉である。

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