Presented by B.B.C./Biwako Bass Communications

Editorial
Vol.3(02/09/25)

本当の裏切り者は誰か

 Editorialの連載開始からちょうど1週間、Vol.2のアップから6日が経過した。その間、あちこちで拙文の内容をテーマとした議論が繰り広げられたようで、まずはお礼申しあげる。とりわけVol.2については、著者からの反論と勘違いした方々が、そら来なすったと喜々としてキーボードに向かわれる姿が目に浮かぶような反応が一部にあったようである。

 それに対して、さらに議論を重ねようとは思わない。その理由は、あえて反論しないといけないような事実あるいは論理展開が何一つ見られなかったからである。議論の前提として、現状を正しく把握できるだけの知識や情報と、それを取捨選択して合理的に論を積み上げるだけの判断力がなくてはならない。そういう知識も判断力も持ち合わせないお子様の戯言に付き合ってる暇はないので、話を先に進めることにする。置いてきぼりにされたくなかったら、がんばって勉強しながらでも付いてきていただきたい。こういう風に書くと、論争の旗色が悪くなったから逃げた、というようなことを言い出す方がよくいるが、そういう発言自体が普通は負けを認めたくない側から出てくるケースが大部分であることを付け加えておく。

 さて、本題である。ジャッカルの加藤誠司プロが実行委員長を務める琵琶湖バス釣り人協議会が9月10日に滋賀県に対し意見書を出した。その内容については、かなり激しい賛否両論があったようである。中には加藤プロを「裏切り者」とする意見もあった。琵琶湖バス釣り人協議会の意見書は一つの提案として、規模の大きなトーナメントではバスをリリースしないかわりに、それ以外のトーナメントや一般のアングラーが釣りをするときのリリースを禁止しないという中庸案を出している。その点を取り上げて、規模の大きなトーナメントでバスをリリースしないとするのは、バスアングラーがバスをリリースする権利を売り渡すことであって、こういうことを提案するのはバスアングラーに対する裏切り行為であると言うのだ。

 滋賀県知事と滋賀県に対しては日本釣振興会ほか数団体から、バスのリリースを禁止する条項の削除を求める意見書や要望書が出されている。もちろん、これが受け入れられるに越したことはない。しかしながら現実はどうかと言うと、いったん条例案に盛り込まれたバスのリリース禁止が全面撤回される確率はそれほど高くないと言わざるを得ない。そういうときに皆が皆、バスのリリース禁止を撤回せよでは、相手を話し合いのテーブルに着かせることすらできないのではないかということで出てきたのが琵琶湖バス釣り人協議会の提案だとするのが、一番わかりやすい解釈ではないだろうか。

 もっと理想を言えば、いろんな団体や個々のアングラーががんばって、具体的に実現可能な様々な提案をすべきである。その提案の中には、リリース禁止の全面撤回に近いものから、ごく限られた条件を満たすときだけリリースを認めるものまで、様々な段階のものがあってよいと思う。その中からお互いが歩み寄れるベストの選択肢を選んで一本化したものをアングラーの側からの提案とするか、あるいはいくつかの提案を併出する。それが民主主義というものだろう。ところが600万人に達すると言われる日本のバスアングラーは、そのようなことができる組織も機構も何一つ持ち合わせていない。その点に関しては、ほんの少し前までバスアングラーを代表するかのような顔をしてた組織が何ら有効な活動も議論もできていないことからもきわめて明白である。

 そこでバスアングラーにかわって日釣振などの組織が動いているのだが、実際は釣り関係の業者が集まった団体である日釣振が背に腹は代えられず仕方なく動いているというのが本当のところだ。日釣振はあくまで業者の団体であって、組織としてのまとまりに欠け、実行力もなく、当事者能力があるかどうかも疑わしい。業者の団体だから、バスアングラーからの観点に乏しいのは当然である。だからと言って、アングラーの代表であるはずの全日本釣り団体協議会は日釣振以上に何もできない。ほかにかわる代表組織がないのだから仕方がないということで、現有組織を最大限活用して、やらなければならないことをやるために加藤プロが出張ることになったのである。

 加藤プロにすれば、一部のアングラーから個人的な非難、中傷を浴びるのは最初から覚悟の上だったはずだ。そういうことを恐れて誰も出て行きたがらないところをあえて出て行ったのは、非難や中傷を恐れていては何もできないということがわかりきっていたからだ。琵琶湖のバスのリリース問題に関してはバスアングラーの間にも様々な意見があり、それがまったく整理されていないどころか、反論を恐れて何も発言しない風潮がとても強い。その中で行動しようとすれば、それなりの覚悟は必要だということである。

 わかりやすい例をいくつかあげよう。家が汚れていると文句を言われるのは、たいていは掃除をしてるお母さんで、汚してる子供達やお父さんではない。空港のバッゲージコレクションで荷物が出てくるのを待っていて、ついに最後まで荷物が出てこなかったときに、その場の担当者を怒鳴り付けてる人がよくいるが、荷物をなくしたのは担当者ではない。いろんな会社の消費者窓口は苦情を受け付けるのもその仕事の一つだが、苦情の原因を作ってるのは窓口の担当者ではない。さらには、またまた日朝首脳会談を引き合いに出すが、拉致された人達のうち8人がすでに死亡していたという事実が明らかになったとき、そのことを家族に伝えた福田官房長官の態度が人間的でなかったという非難が一部にあったが、官房長官はただの伝達役に過ぎない。つまり、ものごとの前面に立つのは常にリスクがつきまとう損な役割だということである。

 琵琶湖バス釣り人協議会の意見書に盛り込まれた提案が万全でないという意見はあって当然だし、そのことを代表者として動いている加藤プロに訴えたい気持ちもわかる。だからといって、裏切り者呼ばわりは的外れもいいところである。裏切り者と呼ばれるべきは、琵琶湖のバスでおいしいめをしておきながら、「慎重な立場だから……」とか何とか言いながら、実際は何もしようとせずに逃げている、あるいは何かしたくてもする能力がない会社や組織、人達であって、少なくとも何かしようとがんばってる人に対して言うべき言葉ではない。

 琵琶湖のバスでおいしいめをした人達というのは、琵琶湖のバスのおかげでがっぽり稼いだとか、有名になって何か得をしたとか、他のアングラーよりも大きいのをたくさん釣って偉そうなことの一つも言ってたとか、具体的にはそういうことである。そういうおかげをこうむっておきながら、いざとなったら何の恩返しもしようとしない例を現在の琵琶湖のバス達、バスアングラー達はあまりにもたくさん目にしてはいないだろうか。そういう会社や組織、人達に対しては、それに見合った評価を下すしかないのだが、そんな判断力や実行力がアングラーにはたしてあるのかどうか。そのことも同時に試されているとしたら、結論によってはアングラー自身が裏切り者であったということにもなりかねない。そういうリスクをみずからも負わされているということを理解しているアングラーはどれぐらいいるだろうか。

 「裏切り者」というような言葉を使うのは、最低限上に書いたぐらいのことを理解してからにしないといけない。そういう理解力も知識も判断力もなく言うのであれば、どこまで議論しても子供のけんかでしかない。それでは内輪もめや近親憎悪を拡大させるだけである。その結果、本当の裏切り者は誰か、どこにいるかがわからなくなってしまう。そういう状態が一番危険なのだが、さて、ここまで書いたことをどれぐらいの割合の方にご理解いただけたであろうか。もしご理解いただけてないとすれば、著者はとんでもない裏切り者だと誤解されるかもしれない。そういうリスクもあるから油断できないのである。

 裏切り者というのがバスアングラーの中から出てきた言葉だとしたら、それは説明の仕方で誤解の解きようもある。もっとやっかいなのは、まったく箸にも棒にもかからない非現実的な自然保護主義者、無知を恥じようともしない新聞やテレビなどのメディアである。その類の批判に対しては、反論すべきは反論し、それ以外は無視するしかない。毛沢東が言った言葉に「敵から悪く言われるのはよいことだ」というのがあるそうだが、加藤プロにはこの言葉を謹んでお贈りしたい。この言葉をさらに解釈すれば、敵に悪く言われれば言われるほど、たいへんけっこうなことだということになる。

 要は状況がいかによく見えているかだ。視界を明瞭に研ぎ澄まし、正しい情報に基づいて一つ一つの判断を下していけば、進むべき方向を見失うことはない。そういう判断力を備えているという点で、加藤プロは著者の知る中では最適任者である。その何ものも恐れない行動力は、ときとして無謀と評価されることもあるが、こういうときにはかけがえのないタレントであるということも明記しておきたい。

 さて、加藤プロが裏切り者ではないということを書くのに精一杯で、本当の裏切り者は誰か、どこにいるかということを書くことができなかったが、これについてはいずれ稿をあらためて書きたいと思う。心当たりのある方は、楽しみにお待ちいただきたい。

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