Presented by B.B.C./Biwako Bass Communications

Editorial
Vol.32(03/04/04)

キャッチアンドリリースの意味

 リリース禁止条例が施行された4月1日の滋賀県琵琶湖は風もなくとても穏やかだった。バスアングラーは岸釣りもボート釣りもごく少なく、リリース禁止に関してトラブルがあったということも聞いていない。その意味では、静かに、粛々とリリース禁止が始まったと言ってもよいのではないだろうか。

 そんなバスフィッシングの現場の様子とは裏腹に、4月1日の前後数日間に渡って、滋賀県政とその周辺はリリース禁止に関して波風が立ちまくっている。リリース禁止の本番を迎えて、滋賀県のやってることのお粗末さ加減が、いよいよあらわになってきたという感じだ。

 滋賀県東南部を中心に発行されている滋賀報知新聞という地方紙がある。以前からリリース禁止に関して全国紙の滋賀版などとは異なる独自の意見を掲載してきた典型的なローカル紙だが、その3月27日号に次のような記事が掲載された。

 琵琶湖の外来魚の漁獲統計はバスとブルーギルを区別せず外来魚の総量として各漁協から報告されている。ところが、農林水産省近畿農政局滋賀統計情報事務所調べの漁獲量にはバスとその他の項目があり、県水産課のまとめによる外来魚駆除事業の捕獲実績には平成11年までバスとブルーギルが別項目で記載されていた。この両者の数値が符合しないどころか、あまりにもかけ離れていているのだ。これは外来魚全体の漁獲量から漁業者の話を元にバスとブルーギルの割合がだいたいこんなものだろうと仕分けしたからで、バスとブルーギルそれぞれの漁獲量は推定値に過ぎない。それが二つの統計で大幅に違っているだけでなく、バスの漁獲量が実際よりも過大に推定されている疑いがある。琵琶湖の外来魚駆除を押し進めようとしている滋賀県が唯一の拠り所とする漁獲統計がこの有様では、在来魚保護のためのリリース禁止と言っても説得力がないと、この最後のところは著者が付け加えたが、記事の概要はこんなところだ。

 この記事の内容をごらんになって、アレッと思われた方は少なくないはず。こんなこと、琵琶湖の外来魚問題に感心のあるバスアングラーなら先刻承知である。漁獲統計以外に学者が調べた類のデータは何もなく、琵琶湖の外来魚の生息量などはすべて推定値であり、バスとブルーギルの割合などは実態とかけ離れていることが多い。だからこそ、ずいぶん前から日本釣振興会を初めとする諸団体は、できるだけ早く琵琶湖の外来魚の関する正確なデータを収集し、それ元に議論しようと言ってきた。それを滋賀県は無視し続けてきた。そんなこと、バスアングラーの間ではすでに常識だ。そのような周知の事実をなぜか今になって滋賀県のローカル紙が取り上げただけのことなのだが、ひょっとしたら他紙の記者はこんなことも知らないで記事を書いているのだろうか。それだったら、まったくもって勉強不足としか言いようがない。

 滋賀報知新聞は4月3日にも琵琶湖の外来魚に関する記事を掲載している。今度は、滋賀県水産試験場が昭和30年代から40年代にかけて琵琶湖周辺の内湖と水路でブルーギルの飼育実験をしたときに逃がしてしまった、その証拠が見付かったというのだ。この件に関しては、昨年9月の県議会での質問に対し、県農政水産部長が散逸はないとする回答をしている。それを覆す証拠が見付かったというのだが、これもブルーギルの日本全国への拡散は行政と研究者のやったことが原因の大きな部分を占めているのは周知の事実である。それを裏付ける証拠が琵琶湖で見付かったというのは一歩前進かもしれないが、それで即、何かがどうにかなるというものでもない。問題は、これをテコにどう闘っていくかだ。琵琶湖と全国の釣り場におけるリリース禁止の撤回と回避、バス釣り場の確保など目標はいろいろあるが、そのためにどう利用するか、証拠を見付けた当事者の方々はくれぐれも慎重に事を起こされるように、自分達と身の回りの利益だけを追求されるようなことのないようにお願い申しあげたい。

 滋賀県は4月1日からのリリース禁止に向けて、3月末に外来魚回収用のイケスと回収ボックスを琵琶湖の各釣り場に設置した。イケスは13カ所の漁港と舟だまり内、ボックスは大津市なぎさ公園に9カ所、草津市の湖岸緑地に6カ所、守山の湖岸緑地に6カ所の計21カ所。今後増やしていく予定としているが、イケスは計画当初20カ所以上に設置する予定だったものが大幅に減っており、設置場所の事情を考えてもスムーズに増やせるとは思えない。しかも、設置された13カ所の中に釣り禁止、立入禁止の漁港や舟だまりが含まれているのには、驚きを通り越してあきれるばかりである。

 アングラーが釣った外来魚を駆除するためのイケスを設置するなら、釣り禁止、立入禁止を解除するのが先決であろう。でなかったら、せっかく設置されたイケスを利用しようがない。もしイケスが利用されなかったらアングラーはリリース禁止に協力してくれなかった、イケスが利用されたら立入禁止、釣り禁止を無視したなどと恫喝するつもりか。あるいは、わざとアングラーを混乱させるつもりでやってるのか。リリース禁止を迎えるにあたっての滋賀県の居直りぶり、偽善ぶり、低能ぶりは、こんな人達に琵琶湖を預けておいて本当に大丈夫かと疑いを抱かせるに十分である。

 滋賀県議会議員選挙の立候補予定者に対して「モロコやフナなどの琵琶湖の在来種の激変を招いた真の原因を明らかにし、実効性のある対策を講じるために、すべての関係者(県当局、県水産研究所、漁業関係者、釣り関係者、生態学や水産学の専門家、環境保護団体、一般市民など)が一同に会した、検討機関を設ける」との提言を行い、賛否の回答を求めたのは市民運動ネットワーク滋賀。リリース禁止条例成立の一方の立て役者である。前記のような滋賀県の居直りぶり、偽善ぶり、低能ぶりに嫌気がさしたのか、あるいは県漁連によるスキャンダルの連発に、このままでは自分達まで一緒にされると予防措置に出たのかは定かではない。しかしながら、すでにリリース禁止条例の施行が決まってから、今さらこんなこと言い出しても、保身のためでしかないのは明か。琵琶湖総合開発による湖岸の破壊がすっかり終わったとたんにヨシ原保全条例を施行した滋賀県とやってることは同じだ。それで贖罪されるものではないということをお忘れなく。利用されてるとも知らず、悪党どもと組んだ偽善者達が、保身のためにどこまで暴走するか、これからの楽しみができたというものである。

 そんな騒ぎを招いた張本人である國松県知事はこのところ元気がない。テレビに出てるのを見ても、なんだか意気消沈しているように見えて、覇気というものが感じられない。リリース禁止条例成立に向かってがんばっておられた去年の夏頃の、あの意気軒昂ぶりがすっかり影を潜めている。一つには、何か言うのにも非常に言葉を選んでおられるから、そのように見えてしまうのかもしれない。その言葉の選び方が、あまりにも選び過ぎで、そのことがテレビの画面を見てるだけでありありと伝わってくるから、何か裏があるように感じてしまう結果になるのかもしれない。裏があるのを隠そうとするから、余計に無理が出てくるというものか。

 滋賀県のローカルテレビ局であるびわ湖放送に、滋賀+1(プラスワン)という滋賀県の広報誌と同名の番組がある。リリース禁止条例が施行された4月1日の夕方、その滋賀+1に出演しておられた國松知事は、例によって「釣り愛好家の方にもご理解いただいて……」と耳にタコができてしまった念仏を繰り返していたのだが、この日はさらに一歩踏み込んで、「釣った魚をリリースするというのは魚を食べない外国の人がやり始めたことで……」なんて言ってた。これって、毎日新聞京都支局の記者だか論説委員だかにキャッチアンドリリースはアングロサクソンの文化であるということを持論にしている人物がいて、その人が滋賀県琵琶湖レジャー利用適正化審議会の審議委員に選ばれた関係で吹き込まれたことの受け売りかとも思うのだが、それを見ていた著者は「あーら、言っちゃったよー」と思った。

 これって、まったく逆だと著者は思う。キャッチアンドリリースが外国から導入されたことは事実であるが、だからと言って、魚を食べることが好きな日本人には似合わないとか、なじまないとか言うのは間違いである。魚を食べることが好きな日本人だからこそ、その好きな魚を逃がすという行為の意味がどれだけ重いか。そのことを釣りしない人達やキャッチアンドリリースの意味を真剣に考えたことのない人達に評価できっこない。それをわかったような顔して、「日本人にはなじまない」なんて言ってるのは、自分の不勉強も顧みず、大きな顔してバカさ加減をさらしてるのと同じである。

 釣りという遊びでがんばった成果として、魚というおみやげが得られる。それを持って帰って、おいしく料理して食べる。これは他の遊びにはないプラスアルファの楽しみだ。日本でキャッチアンドリリースが導入される以前は、それがあたりまえだった。釣った魚は食べる。無駄に殺すのではなく、殺してしまったものは最後まで責任を持って食べてあげる。それが魚に対する礼儀であり、日本人になじむ考え方でもあることは理解できる。

 しかしながら、その根底には無駄に殺さないという原則が貫かれていなくてはならない。必要もないのに釣れるだけ釣って殺すのでは、漁獲量の激減が問題になってる在来魚をいまだに何の漁獲制限もなく獲れるだけ獲ってるどこかの誰かさんと同じである。釣りの思想の中には、小さな魚は釣れても逃がすというようなマナーも含まれる。これが進歩すれば、最初から小さな魚が掛からないように大きなハリや太い糸を使うというようなことになる。遊びであるからには、簡単に釣れるよりも、技巧的で面白い釣りが好まれることにもなる。

 釣って面白く、食べてもおいしい魚なら、無条件で人気魚種である。これは昔からその通りだが、衣食住が満たされるにつれて、釣るのが面白い魚なら、食べられなくても人気魚種として歓迎されるようになった。ヘラブナやバスがその好例である。それがさらに進めばどうなるか。食べられる、食べられないに関わらず、釣り上げるまでのプロセスだけを楽しんで、釣れた魚は逃がす。それがキャッチアンドリリースである。だから魚種は問わない。イシダイでも、メジナでも、クロダイでも、カジキでもリリースする。「日本人にリリースはなじまない」なんて言ってる人は、60cmもあるメジナや70cmオーバーのクチジロイシダイ、100kgオーバーのカジキをリリースしてる人達のことをどう説明するのだろうか。あるいは、それでもやっぱり「なじまない」と言い張るのだろうか。

 日本人が魚を食べるのが好きなのは事実だとしても、食べられる、食べられない、おいしい、おいしくないはキャッチアンドリリースには関係ない。「食べたらおいしいのに……」という葛藤はアングラーの心の中で昇華すべきであって、キャッチアンドリリースの価値に結び付けるべきではないのだ。そうでないと、おいしい魚をリリースするのは貴い行為で、そうでない魚をリリースするのは一段次元の低い行為だなんてことになってしまう。そうではなく、リリースするという前提に立った時点で、その魚が食べておいしいかどうかは評価の対象外になる。その魚を釣ってどれだけ面白かったかという価値だけを求める。釣りという遊びをそこまで昇華した後にリリースという行為がくっ付いてくるのである。

 魚を食べるのが好きな日本人だからこそリリースという行為に重い意味があると著者が言うのはそういう意味である。つまり、リリースという行為だけを評価しても意味はなく、その行為を支える精神をこそ評価すべきなのだ。例えば、一生に1尾釣れるか釣れないかの大きな魚を釣ったとき、それを持って帰って誰かに見せたい、はく製したいという気持ちは誰にでも起こる。その1尾を逃がすか殺すか。判断はアングラー次第である。逃がさないと到達できない精神の高まりもあるし、殺さないと知ることができない心の痛みもある。自分自身でそういう経験の一つもしてから、あるいはそういう経験をたくさんした人の話を聞いた上でキャッチアンドリリースという行為を評価をするのでなければ、それこそキャッチアンドリリースという果物を皮の外からなめただけで味を判断することになってしまう。それでは恥をかくだけだから、黙っておいた方が賢明というものである。

 それにしても、「魚を食べるのが好きな日本人」という表現が今現在の日本人の特にバスフィッシングを楽しんでいる世代の実態を正確に反映しているかどうかはきわめて疑わしい。その点に関しては、リリースのことを不当に評価してる人達がこういう言い方をしてるから、著者もそれに従っただけであることをお断りしておきたい。ただし、食べることを別にしても、魚という生き物が好きだという点で、日本人は世界に比類のない民族である。著者もその突出した1人であることは認めるが、だからこそ1尾の魚を逃がすか殺すかの判断に重い意味があるのだと言っておきたい。

 釣りという遊びは他の遊びとくらべて自由の度合いが大きいが、中でも琵琶湖のバスフィッシングは格別に自由度の大きい遊びだと著者は思っている。法律で制限された定置網の周辺や立入禁止の漁港などを除けば、どこで釣りをするのも自由だし、誰かに見張られているわけでもない。お金を取られるわけでもない。誰かが作った枠組みの中で、ルールや場所、取り決めにしばられながら遊ばせてもらってるだけの他の遊びとは本質的に違うのである。だからこそ、琵琶湖のバスフィッシングが好きなアングラーの多くは自由をしばられることを嫌う。自分の好きな場所で、好きなタックルとルアーを使って、好きなようにバスフィッシングを楽しみたいのだ。それが極端になると、立入禁止、釣り禁止なんか気にしない、他人の言うことなんか聞く耳持たないなんてことになってしまうのだが、そういうことも含めて琵琶湖のバスアングラーはつくずく本当の意味での自由が好きな人達だと思う。そんな琵琶湖のバスアングラーからバスをリリースする権利を奪うことの意味を次に説明しよう。

 釣りという自由度の大きい遊びの中で、釣った魚を逃がすか殺すかというのは、アングラーに与えられた最高度の選択である。その選択は、アングラーの自由意志にもとづいて行われなければならない。そういう自由な判断の機会を奪い、釣った魚を殺せと強制するのは、イスラム教のお寺や教典はかえなくてもいいから、明日からキリスト教の神様を信じなさいと強制してるのと同じである。やってることは同じように見えても、中味はぜんぜん違う遊びをしなさい、それが嫌なら琵琶湖から出て行きなさいと言ってるのと同じである。

 3月22、23日に滋賀県が開催した外来魚駆除大会に参加してた人達は、著者にはとても同じ釣り人には見えなかった。釣りをしてる姿形は同じでも、釣りの精神のかけらもない、人から言われるままに外来魚を釣って殺して、それでいいことをしたと思ってる人達である。その人達が悪いと言いたいのではない。今まで琵琶湖で遊んでたバスアングラーがリリース禁止で釣りに来なくなったら、いつの間にか琵琶湖で釣りをしてるのはこういう人達に置きかわっていくのではないかということを言いたいのだ。あるいは、トーナメントのルールで釣ったバスは駆除するか県外へ持ち出すと決められたら、それに黙って従うトーナメンターだけが残るのだろうか。それでも、外見は何らかわりない釣り人、バスアングラー、トーナメンターである。たとえ自由とは無縁であっても……。

 リリースは禁止するけど釣りにはどんどん来てくださいと言ってる滋賀県が目指しているのは、最終的にはそういうことではないのか。キャッチアンドリリースの意味なんか深く考えたこともない、人の言うことは黙って聞く、何が面白くて釣りをしてるのかわからないような人達ばかり琵琶湖に集めて、それ以外の文句言う人達は琵琶湖から追い出す。それに成功すれば、あとはやりたい放題で琵琶湖を好きにできる。本当の目論見はそこにあるのではないか。そういうことにならないためにも、琵琶湖のバスアングラーは今一度、キャッチサンドリリースの価値を再認識し、リリース禁止が本当は何を意味してるのかを考えなおす必要があるのではないだろうか

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